【卒塾生インタビュー】経営者・輪島一星さん「人生は“楽しんだ者勝ち”。大事なのは、自分が選んだ道を正解にする力です。」

輪島一星(ワジマイッセイ)さん

株式会社NINPO 代表
(坪田塾 車道校 卒塾生 / 同志社大学 文学部哲学科卒)

同志社大学文学部を卒業し、名古屋の広告制作会社に入社。その後東京の大手企業へ転職し、2022年に広告制作会社 ・株式会社NINPO [ニンポウ] を立ち上げた輪島一星さん。浪人生の頃、坪田塾車道校に通いながら受験勉強に勤しんでいました。

いつも物事を選ぶのは直感。

その直感を間違ったと思ったことがない。

選択の物差しは「面白いか面白くないか」。

そう笑って話してくれる輪島さんからは、今の自分の仕事に対する誇りや自信、そして何よりも今を楽しんでいる様子が感じられます。まさに坪田塾がクレド(※)として掲げる「世界を築き上げていく人材」を体現していると言えるでしょう

※クレド:講師や従業員が心がける信条や行動指針のこと。坪田塾ではクレドの一節で「(坪田塾の)塾生は、世界を築き上げていく人材へと成長します」と謳っています。

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そんな輪島さんに、当時坪田塾で担当講師を務めていた車道校・福井先生と一緒に、今のキャリアを歩むことになった経緯や今後やりたいこと、大学受験時のエピソードなどをお聞きしました。

・今の勉強が将来にどう生きるのか気になる
・将来に対して漠然とした不安がある

このような悩みや迷いをお持ちの中高生の皆さんに、輪島さんのこれまでとこれからをご紹介します。きっと、皆さんの未来へのヒントとなるはずです。

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海外進出に向けて邁進中

自身の広告制作会社、株式会社NINPOの代表として、輪島さんは主に映像コンテンツ制作事業を手がけています。

起業から2年、国内のクライアントと共にさまざまな成果を収めてきました。現在は、次なる目標である海外進出に向け、リサーチを重ねている最中だそう。

「今年中にアジア圏にグループ会社か支社をつくりたいんです。NINPOという名前にしたのも実は海外の人に覚えてもらうため。忍者という言葉は海外に浸透している言葉のひとつだと思うのですが、忍者だとひねりがないなと思って。あらゆる術を使って課題を解決するという意味も込めて、そう名付けました」

インタビューに答える卒塾生

会社を立ち上げる前から海外展開を視野に入れ、社名を考えていたと話す輪島さん。その原点は「世界征服がしたい!」と無邪気に夢見ていた小学生時代に遡ります。

「もし自分がつくった広告が世界で流れて、その結果として何かのムーブメントが起きたとしたら、それはもう世界中の人の心を掴んでいるってことだと思うんです」

熱狂の渦は、いつだって小さなきっかけから始まります。穏やかな水面に投げた石が波紋を広げる日を目指して、まさに今、輪島さんはその足掛かりを探っているのです。

「海外で仕事がしてみたいのは、単純に面白そうだから。文化も価値観も違う人と関わった方が絶対楽しいじゃないですか。新しいインスピレーションも受けると思うし、いいことづくめですよね」

 

就活中に出会った「楽しそうに働いている人たち」

輪島さんが今のキャリアを歩むことになったきっかけは、大学3回生の頃に参加した就活イベントでした。その時に「真剣に“はっちゃけてる”」人たちの様子を目の当たりにし、面白そうな業界だなと興味を持ったのが広告業界との出会いだったのです。

「 “仕事は生きていくためにやらなきゃいけないもの”という考え方に昔から馴染めなかったんです。なので、楽しそうに働いている人たちを見て、こういうのなんかいいな、って思いました」

インタビューに答える卒塾生

それに加えて、一見きらびやかに見える世界の裏側の、泥臭さも大きな魅力だったのだとか。

真夜中まで企画を考え、ひとつのコピーをつくるために数えきれない量のキャッチコピーを書いても、それが採用されるとは限らない。そんな過酷な世界で、産みの苦しみを味わうことすら楽しんでいる人たちを見て、輪島さんの直感が働きました。

「仕事をするならこの業界だってピンときました」

大学卒業後、晴れて地元名古屋の広告制作会社に入社。

そこで広告制作の基礎を学びながら、地元の企業を中心としたクライアント相手にさまざまな広告案件に携わりました。

 

やりたいことをやれる環境で仕事がしたい

名古屋での1年半の勤務を経て、輪島さんはより大きな舞台を求めるようになりました。そこで選んだのが、東京の大手企業へ転職でした。

東京では、国内有数の有名クライアントを相手に数多くの案件に関わることとなります。しかし、希望通りの会社に転職し、理想的な大型案件を手がけていたにもかかわらず、少しずつ澱のようにフラストレーションが溜まっていったと言います。

なぜそんな矛盾が生まれてしまったのでしょうか。

「自分のやりたいようにやれないことに疲れてしまったんです。確かに大きな案件に携わることはできました。でも、それは会社が持ってきた案件をただ消化しているだけだったんです」

インタビューに答える卒塾生

やりたいことと現実との乖離に悩み、輪島さんは休職を選択します。

休職中、輪島さんは自分の将来について深く考えました。そして、二つの結論に至りました。一つは、やはり広告業界で頑張り続けたいということ。もう一つは、クリエイティブな仕事、つまり作り手の立場でいたいということでした。

「やりたいことができる環境は自分で作るしかない」

そう考えた輪島さんは起業を決意します。自分で会社を立ち上げ、自ら営業してクライアントを開拓し、広告を制作して世に出す。そうすれば、誰にも邪魔されずに自分のビジョンを実現できるはずだと考えたのです。

こうして2022年、株式会社NINPOが誕生しました。

 

様々な人に助けられ、船は進む

もちろん最初から順風満帆というわけにはいきません。NINPOは、クライアントも仕事もない厳しい状況からスタートを切りました。

輪島さんは、貯金を切り崩してウェブサイトを制作し、懸命に営業活動を行いました。しかし、簡単には仕事を獲得できず、最初のうちは案件がない状態が続きました。

そんな苦しい時期に、思わぬ援助の手が差し伸べられます。以前勤務していた会社の元上司から「大丈夫か?」という連絡が入ったのです。

インタビューに答える卒塾生

その後、業務委託という形で仕事を依頼してくれたことで、危機的状況を脱出。窮地を救ってくれた前職場との関係は今でも途切れずに続いているのだそうです。

NINPOは着実に成長を重ねています。約1年前に1名、その1ヶ月後にさらに1名とメンバーを増やし、現在は輪島さんを含めた3人体制で事業を展開しています。

ユニークなのは2名の社員が、輪島さんが新卒で働いていた会社の同期と上司という点。

会社を辞めたあとでも、また仕事を一緒にしようと思わせるだけの魅力が輪島さんに備わっているという証でしょう。

 

起業を経て思うこと

起業した一番の理由であった“やりたいことをやる”という目標。

実際に自分の会社を興した今、その思いは実現できているのでしょうか?

「そうですね、やりたいことができています。会社員時代に戻りたいかと聞かれたら……楽しいことはあったけど、戻りたくはないって答えます。これからもっともっと面白いことができると思っているので」

そう笑顔で語る輪島さんからは、これまで歩んできた道のりがもたらす自信と、未来への期待が感じられました。

 

大学合格を目指し、坪田塾へ入塾

輪島さんは現在、「やらなきゃいけないもの」という仕事観から脱却し、やりたいことを実現しています。では、受験生だった頃は何を考え、どのように過ごしていたのでしょうか?

また、大学受験での経験は、現在の輪島さんにどのようにつながっているのでしょうか?

ここからは、輪島さんの受験生時代を振り返ります。

輪島さんが坪田塾に入塾したのは、浪人が決まって間もない2011年5月。

塾探しを始めてから約1ヶ月後のことです。

ある日、地下鉄の駅で見かけた塾のポスター。そこで「良さそう!」と感じたのが坪田塾だったのです。

「当時、坪田塾は青藍義塾という名前の塾でした。その字面を見たときに、いい名前じゃん!って直感で思って説明を聞きに行ったんです。個別指導だと知って、ここだ!と決めました」

インタビューに答える卒塾生

ホワイトボードを前に、多くの生徒が競い合いながら一斉に学ぶ塾ではなく、自分のペースで勉強できる環境を求めていた輪島さん。一人ひとりの個性や学力に合わせた指導が受けられる坪田塾は、まさに理想的な場所でした。

当時の輪島さんについて、担当講師だった福井裕介先生はこう振り返ります。

「落ち着きがあって、大人びたところがたくさんありました。話を受け止める力があって、返ってくる言葉もとてもしっかりしていましたね。表現の一つひとつが個性的で、輪島くんの言葉には説得力がありました」

自分のペースで勉強をすすめる

坪田塾での学習は、英語を中心に進められました。

中学英語の基礎から見直し、並行して英単語のストックをどんどん増やしていきました。

輪島さんは暗記が得意だったそうです。例えば福井先生が10単語覚えてきてねと言ったら20単語覚えてくる、といった具合でした。「言われた以上にやってやる」という気持ちで取り組んでいたといいます。

個別指導の良さは、自分のペースを守れることだけでなく、ペースを調整することもできる点にもあります。

黙々と単語を覚える当時の輪島さんの様子を福井先生もよく覚えていました。

得意科目だった日本史では、資料集や教科書をすべて暗記。どんな問題にも対応できる状態になるまで読み込みました。

それだけでは飽き足らず、自ら問題を作成し、答えを書き込み、教科書をオリジナルの参考書に仕立てあげるほどの徹底っぷり。

「やり始めると勉強がどんどん楽しくなっていきました。わからないことが出てくると、それを調べるのが楽しいし、知らないことを知れるのも楽しかったですね」

インタビューに答える卒塾生

 

自分で決めたことを説明する力

福井先生は当初、輪島さんの学力の伸びを見て慶應義塾大学の受験を勧めていました。輪島さんも一度はそのアドバイスに沿って、慶應の勉強を始めます。しかし最終的に、輪島さんが選んだのは同志社大学でした。その理由を、輪島さんはこう説明します。

「慶應は慶應で魅力的だけど、なんだか僕には遠い存在に感じたんです。僕は歴史が好きで京都も好き。同志社は前年も受験していて、問題の傾向や出題形式が自分に合っていると感じていました。楽しんで解けるという手応えもあったので、やっぱり同志社を受験したいと伝えました」

この決断を聞いた福井先生は当初、モチベーション低下の可能性を懸念していたそうです。しかし、輪島さんの説明を聞くうちに、確かな想いに基づいた変更であることを理解しました。

「入塾以来コツコツと単語の勉強を続けていたのを見ていましたし、実際に同志社の過去問を解いてもらうと手応えがありました。同志社の入試問題は単語力が問われる傾向にあって、語彙を増やすことが得点に直結するんです。日本史は心配なかったので、だったら同志社に照準を絞ろう、と私と輪島くんの間で話がまとまりました」

インタビューに答える当時の担当講師

 

つらい受験勉強こそ楽しんだもん勝ち

努力が実を結び、輪島さんは第一志望だった同志社大学文学部哲学科に見事合格。

大学在学中、アルバイト先で知り合った京都大学の学生たちから「受験勉強は楽しかった」と言う声を聞き、「やっぱり勉強は楽しんだもん勝ちだよな」と改めて感じたそうです。

「受験勉強って辛いことも多いし、ネガティブな方向に思考が行ってしまうこともあるじゃないですか。でも、どうせやるなら絶対に楽しんだ方がいい。僕は『これを覚えてる奴なんて誰もいなんじゃないか?』とか『これ覚えてたら自慢できる』なんてことを考えながら勉強するのが楽しくて。そうすると次は物事の流れを知りたくなる。ここまでくると、勉強が自動的に楽しくなるんです」

インタビューに答える卒塾生

例えば教科書によく出てくる名前を調べていくと、枝分かれのように知識が広がっていくことがあります。物事にはすべて理由があると分かれば、それを調べてみたくなる。調べてみれば途端に距離が縮まった気がする。

要は、勉強は楽しんだもの勝ち、というのは、どれだけ好奇心を持って勉強と向き合えるか、ということなのかもしれません。

 

楽しいかどうかをかぎ分ける嗅覚

輪島さんのこれまでの選択を振り返ると、その直感の鋭さに驚かされます。そこには常に “楽しいかどうか”という基準がありました。

大学進学を決めたのは、有名大学には面白い人がたくさんいるだろうと考えたから。

坪田塾を選んだのは、個別指導の魅力に加え、青藍義塾という字面に一目惚れしたから。

広告業界に興味を持ったのは、華やかさと泥臭さの狭間で、大人たちが楽しそうに働いていたから。

起業を決意したのは、誰にも邪魔されず、自分のやりたいことを追求したかったから。

海外進出を目指すのは、海の向こうの価値観や文化に新たな刺激をもらえるから。

輪島さんは、これまでの選択に後悔は一つもないと言います。

一方で世の中には、どんな道を選んでも後悔ばかりする人もいます。その違いは何でしょうか。

それは、自分が選んだ道を正解にする力があるかどうかです。正解だから選んだのではなく、選んだからこそ正解にする。そして努力し、そのプロセスを心から楽しむこと。

輪島さんの言葉を借りるなら「楽しんだもん勝ち」なのです。

卒塾生と当時の担当講師

 

講師コメント

福井裕介 車道校校長

当時の担当講師

毎年たくさんの生徒を大学受験に送り出していて感じるのは、成功する生徒さんには共通点があるということです。それは、自分の意見を言える力です。例えば意見が分かれたときに、理由を述べて論理的に説明できるかどうか。慶應受験を勧めていた私に、同志社を受けたい理由をちゃんと説明できた輪島くんは、そういう生徒の一人でした。壁にぶつかることはあっても、自分の芯を持って選択できる力のある人ほど入試に勝つ。常に自分のペースで、自分の道を信じて勉強に取り組んでいた輪島くんには、その力が備わっていたのだと思います。